家庭崩壊、同級生の自殺、アメリカ留学、スラム街での極貧生活、演奏活動、音楽業界、ホームレス、そして人権保護運動、・・・・。40歳になるまでに30回以上引っ越しをし、40以上の職に就いた。徹底的に人を頼らず、徹底的に自分を信じて生きている。

毎日が驚きだ。いや、世間の人間の生き方が不思議でならない。人類は進化しているはずなのだが、地球全体を取り巻く環境は悪化する一方である。21世紀はアメリカ同時多発テロで幕を開け、世界の国々の対立が浮き彫りになり、国際社会は混迷したまま。そして経済と権力の一極化が進んだ。そして2011年、日本が直面した大災害。やはり未来は、子供の頃に期待を抱いた21世紀は来なかった。全てが懸念していた通りとも言える。

東洋の楽器をフューチャーしたRock Of Asia。その1st CD発売日のお昼前、1000枚のCDが東京のオフィスに届く。CDのテーマは海。 「Ocean」 は漁に出ている間に妻がいなくなってしまい、毎日、海辺に来て波を見つめる猟師の歌である。それをを聞いている時、襲った大地震・・。

Ocean の歌詞はまさに津波の被害を予言していたようだった。作曲者として、私はその奇跡的な偶然を、ただの偶然とは捉えなかった。これまでも私が書く曲は未来を言い当てていた。しかしこの偶然はあまりにも劇的過ぎた。

そして震災発生5日後、私は被災地へと向かった。3月に2度、宮城、岩手、福島に自家用車で行き、支援物資の調達などを行い、そして「Ocean」 のミュージック・ビデオも撮影したのである。後にYouTubeで公開したこのビデオでは3月11日、地震発生1時間後の私のオフィスの映像から、被災地の岩手県大船渡市や宮城県南三陸町で撮った映像がフューチャーされている。


                                     OCEAN ミュージック・ビデオ

Rock Of Asia 代々木公園の野外フェスティバルにて


何故か・・。奇跡が起こり続ける。私の人生はとにかく普通とは全く異なるものであろう。子供の頃、大人に対する疑問と共に成長した。高校生の時、友人を自殺で失った。しかし学校は自殺した事実を公表せず、私は葬式に出席する事さえ学校に静止された。徹底的な大人不信に陥り、その後、高校は殆ど通わなかった。アメリカに行こうと決め、英語の勉強だけはしたおかげで卒業は出来たが、いまだに卒業証書を受け取っていない。

学校のシステム自体に全く賛同できない、中学から私立学校入り、高校もそのまま進学できた私は受験勉強をした事さえ、ない。楽器演奏や作曲、その他のスキルは全て独学である(語学はアメリカの学校で学んだが、大部分は自力である)。自分自身で、自分一人で何もかもやり遂げる、そうでなければ意味が無いのである。

アメリカに渡り、LAの大学に通う事になった。初日のオリエンテーションで登録をしている時、後ろから大声が聞こえた。日本語である。「お前、何でこんな所にいるんだ!」その男は中学に進学した時、隣の席だった同級生だった。彼とは仲が良く、中2の時に一緒にバンドを結成した。しかし広く世界の音楽を聞いていた私と、日本の流行歌にしか興味がなかった彼。次第に我々は離れて行った。そして友人の自殺によって学校さえ行かなくなっていた私と彼は、1年以上は会っていなかった。

実は彼からギターを借りっ放しだった。彼は裕福だったのでギターを数本持っていた。私はそのうちの1本を買う、と言う約束で使用していたが、そのままになっていたのだ。彼はすぐにギターの話をし出した。考えられない偶然だ。日本のどこかで会うならともかく、中学1年、入学した時に隣だった彼と、太平洋を隔てたアメリカで、またもや入学初日に会ってしまう。

さすがに考えた。これは借りっ放し(というか、買うつもりで全額払ってないままだった)のギターは返すべきなのだろう。彼にとってギター1本はそこまで貴重でもない。しかしお金をきちんと払わずに使っていた私が悪いのである。神はきちんと見ているのか。それ以来、悪い事は出来なくなった。


不思議な事は確かに起きる。それでも心霊現象は信じていなかった。しかし、まだ20代前半のある日、決定的な出来事が起きる。当時、LAの郊外にある日本人コミュニティにあったビデオ店で働いていた。そこに毎日、ビデオを借りにくるおばさんがいた。彼女は自分を戦争花嫁と呼び、私の事を息子のように可愛がってくれた。彼女はアメリカ人の夫と二人暮らしだったが、一度、流産していると言う。授からなかった子供と私がダブって見えたのだろう。

そのビデオ屋に新しく既婚女性がアルバイトで雇われた。ある日、彼女が霊体験の事を話し出した。子供の頃からずうっと霊が見えてしまう、という事を延々と話した。話が終わった後、私は彼女に忠告した。そんな事ばかり言っていると、変な人と思われてしまうよ、と。彼女の表情が歪んで見えた。

それから数日後、深夜、寝ていると急に目が覚めた。窓際に誰かがいる・・・。そこはアパートの2階で窓の向こうに人が立つ事は不可能である。体中が発汗し、震えた。絶対に見てはいけない物がそこにあると直感した。それまで体験した事のないセンセーションだった。

翌日、ビデオ屋に出勤。開店して間もなく電話が鳴った。そのおばさんが前の晩、亡くなったと言う。夜の11時頃、プールに落ちて息を引き取ったと。愕然とした。あの時、感じたのはおばさんの霊だったに違いない。受話器を置き、振り返るとアルバイト女性が立っていた。昨夜の出来事を話し、おばさんが事故死した事を告げる。やはり霊って存在するんですねと言った私に、彼女が微笑んだように見えた。

それ以来、私は霊感づいてしまった。数年後、私は一軒家に3人のルームメートと住んでいた。ある夜、窓から女性の霊が入ってきた。もうこうした事にも驚かなくなっていた私は翌朝、ルームメートに言った。窓の向こうには道路があるのだが、そこから女の霊が部屋に入ってきた、と。女性のルームメートは冗談止めはてよ、と返した。しかしその翌日である。夜遅く、帰宅するとルームメートが真っ青だった。昼間、家の前で事故があり、女性が亡くなったと言う。

家の前は普通の道だ。その女性は一人で車を運転し、電柱に突っ込んだのだった。真昼の出来事である。

1996年、アメリカ音楽業界の没落を感じ、帰国する。すぐに音楽活動を始めたが大きな落とし穴があった。全財産を失った。その女性は私から全てを奪ったのである。彼女は私の携帯電話を没収し、知り合いとのコンタクトを全て断たれた。楽器等の機材やマックは壊され、私は音楽を諦めざるを得なかった。しかし彼女の狂気には終わりがなかった。そこで私は彼女の元を去ったのだが、その時、免許証、パスポート、預金手帳等、全て彼女に取り上げられていた。路頭をさまよい、駅構内で寝た。もう人生は終わったと思った。しかしそこから全てがトントン拍子に好転する。起業したビジネスは当たり、音楽も再び出来るようになった。そしてとても健康的になり、今では風邪一つひかない。

しかし私の手元には過去の所有物は一切ない。子供の頃の写真一つ、ないのである。だけど一番大切な物を見つけたと思っている。人間の本質についてを学んだと思う。そして驕り切った人間社会への疑問が再び、芽生えた。アムネスティ・インターナショナル等のNGOに参加し、アフリカ人の支援などをコツコツと行ってきた。

2004年、難民申請をしていながら収監されたソマリア人を支援し、募金を集め、オーストラリア行きの旅費を出した。2008から3年に渡って冤罪で投獄されたナイジェリア人を支援し、保釈金を払い出獄させた。Rock Of Asia は国際社会への貢献を念頭に置き、結成された、2010年にアメリカ公演を敢行し、アルバムを製作した。コンピューターを使用しない極力、アナログに近い音で作った。私は金儲けの為に音楽を作るわけではない。名声にも興味がない。今のアーティストと名乗る人たちはただ音楽を利用しているだけである。60年代や70年代とは全く違う。もはや売れている音楽に時代を変えるエネルギーはなく、政治家には常識さえない。メディアの狂騒、インターネットの大バーゲンセール、そしてエゴの大パレード。社会全体がサーカス化し、電気は無駄に消費され、環境は破壊され、誰もが自由民主自分主義に生きる。

そして2011年3月11日・・・。


大震災は私の音楽活動に多大なる変化を与えた。自分が書いた曲が多くの方が犠牲になる大災害を言い当てていた・・。3月19日のCDリリースパーティーは中止。予定を立てていた都内でのライブや海外へ行く計画も中止し、被災地の復興のために時間と予算をつぎ込んだ。それはまるで神が私の運命を操っているようだった。

3月22日に大船渡市役所に支援物資を届けた。そしてThe Ocean のビデオはその直後に無人の漁港で撮影されたものである。

3月11日の映像&震災直後の東北の映像

6月は瓦礫撤去などの復興作業を行い、7月初旬には大船渡の老人ホームや避難所でライブも行った。8月にはトルコの災害救助隊と岩手・宮城の学園を慰問した。その他、岩手出身のアーティスト支援、遠野まごころネットでの活動など、1年で10回、被災地を訪れている。

写真左・宮城県南三陸町 (2011年3月17日)

奇跡的な出来事は起き続ける。2011年は中東でも大きなうねりが起きた。アラブの春と言われている一連の革命。私は高校生の頃から中東情勢に興味があり、一時期は落合信彦の本を読み漁り、中東に関する知識は専門家並みである。昨年の夏、バンドのメンバーに中東へツアーに行くと伝えた。何故か、絶対に行くのだと思ったのである。その数週間後、あるエジプト人から電話がかかってきた。彼はカイロ大学の教授で、2年ほど前にエジプトへ帰るまで仕事でお世話になった人だった。

その時、たまたま日本に来ていて、知り合いのエジプト人が困っているので助けて欲しいと言ってきた。私は彼と会い、自身のバンドで中東に行きたいと言うと、是非、来てくださいという返事をもらった。彼は日本文化協会の副理事でもあり、そこから正式に招聘してくれた。

このツアーは2012年11月に敢行され、エジプト~イスラエル~パレスティナを回る事になっている。私の人生の中でも重要な意味を待つツアーになるだろう。

これから先、どんな未来が待っているのだろうか。それはもちろん、わからない。しかし一つ言えるのは私は理想の人生を歩んでいるという事。人生の厳しさ、世の中の裏表、その全てを経験できた。とても自分らしく生きてきた。そして音楽を、自分にしか作れない音楽をこれからも死ぬまで作り続ける。
 -Nikki Matsumotoー
大船渡市の老人ホームでの演奏風景

           
震災直後の3月に撮った被災地の写真   

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