2011年3月11日という一つの原点 
Part 1
 

2012年、夏。岩手県陸前高田市で行われたイベントTAKATA FESTA にボランティアとして参加し、東京に戻った。震災以来10回以上、訪れた東北。何故、そこまで人の為にやるのか、と言う人もいる。だけど行動を起こすその原動となる、自分を突き動かしている何かがあるのだ。それを人に打ち明けた事はない。帰京して以来、心の中を整理していてみた。そしてそれを記録に残そうと思い立った。

2日間、不眠不休で運転し、駆けずり回った。イベントは悪天候もあり大変だったが、何とか乗り切った。その夜、スタッフや参加者と飲む。すっかり酔った主催者がやってきて、震災時の事を話し出し、涙を流した。その涙が私にはわかる・・・。

震災後の3月15日から東北に入った。悲惨な光景ではあったが、特にショックでもなかったし、悲しくはなかった。生まれて初めて陸前高田に足を踏み入れたのは3月17日だ。自衛隊が遺体を掘り起こす横で遺失物を拾って歩いた。名前入りの赤ん坊の写真、結婚写真や子供のアルバム・・・この人たちは今、生きているんだろうか、と思いつつも涙は出なかった。

この地球上ではかなり頻繁に大災害・大事故が起こる。飢餓や戦争・・・世界では今も悲惨な出来事が毎日起きている。被災地に知り合いがいるわけでもないし、この土地と何かしらのつながりがあるわけでもない。だけども出来る限りの支援を続けている。イベント主催者の涙を見て、私は原点を思い起こした。こうして無償のボランティアを続ける原動力となったあの日の出来事・・・・。




2011年3月11日は私のプロジェクト、Rock Of Asia のデビューアルバム発売日だった。お昼前に手元に届いたそのCDを車の中で聞きながら、税務署へ向かった。

駐車場で車を停めようとしていた時、巨大地震が日本を襲ったのである。揺らぐ大地、しかし辺りを見ると高い建物はなく、車の中にいれば安全だろう、と即座に判断した。

我れに返ると車内ではRock Of Asia のアルバムの中の1曲、Ocean が流れていた。その時は気に留めなかったが、翌日、TVの流す津波のシーンを見て気が付いた。もしかしたら・・・・。

数年前に書いたOcean 歌詞を改めて読み、愕然とした。


Day to day, I have stood by the ocean
Yesterday and today
Oh the waves of the sea, how they grieve
Singing along with my heart beat

Sail away, now my boat of the ages
Cast away and away
I'm alone in the land, born to roam
And it's calling again in my sleep

Life is a journey and life is a drif
Wander the darkness to home, home

So I lay here alone by the stream
Dream about all the past
You were there now you're gone from the haven
And I know that I don't belong here

Life is a journey and life is a quest
Wander the darkness to home, home


来る日も来る日も、私は海辺に佇む
昨日も、そして今日も
ああ、海の波よ、どれほど悲しいのだろう
この心臓の鼓動と共に歌っている

年老いた私の船よ、海に漕ぎ出せ
どこまでも、どこまでも、漂流するのだ
私はこの陸では一人ぼっち、彷徨うために生まれてきたのさ
夢の中でまた、私に語りかけてくる

人生は旅、人生は漂流
家を探して、暗闇をさまよう

そして私はこの潮の傍で横たわる
過去を夢見ながら
君はここにいたけど、この港から消えてしまった
わかっている、私ももう、ここにはいられないんだ

人生は旅、人生は探究
家を探して、暗闇をさまよう


有り得ない・・・。この歌詞はまさに津波の被害を受けた漁師の事を歌っている!自分が書いた歌が津波を予言し、そしてその曲を発表した3月11日の午後2時46分、その曲を聴いていたのだ。今、振り返ってみても奇跡的としか言いようがない。しかし私の人生はまさに奇跡の連続なのだ。

こちらにその Ocean のミュージックビデオがアップされている。ビデオは地震発生1時間後、の自宅の様子から始まり、ロケは震災直後の大船渡である。

そして4日後の3月15日、私は東北へ向かった。一般人は立ち入り禁止だったが、イギリスのメディアからの依頼を受け、自家用車で被災地を回った。修羅場を見てきたスコットランド人のカメラマンと合流し、支援物資を調達し、緊急車両の登録をし、宮城へと向かう。多賀城、石巻、南三陸と宮城を北上するにつれ、その光景は悲惨さを増した。3月18日、津波到来の1週間後に陸前高田に入った。

その状況を振り返る前にあの日以来、11回に渡る被災地訪問を一覧にしてしてみた。
2011年3月.15日
     〜3月19日
 
最初の被災地訪問。宮城県仙台市から入り、岩手県大船渡市まで沿岸部を回って取材。その番組はドキュメンタリーとしてイギリス、アメリカはじめ世界各国で放映された。そのフルバージョンもYouTube で見れるが、こちらに私が絡んだシーンのダイジェストが載っている。

2011年3月21日
     〜3月25日

福島県いわき市に飲料水を運び、その後、前回と同じルートで宮城、岩手を回る。最終目的地、大船渡に物資を届けた後、3月24日に Ocean のミュージックビデオ撮影。

2011年6月7日
     〜6月22日

遠野まごころネットに参加。遠野市に2週間宿泊し、瓦礫撤去、河川清掃、南三陸鉄道の線路解体等の作業を行う。6月19日に陸前高田で開催された地元ミュージシャンのライブ、陸高音楽祭を見に行き、まっと始め、地元のミュージシャンと出会う。

2011年7月9日
     〜7月11日
HAOWさんと一緒に大船渡の老人ホーム、避難所を回る演奏ツアー。まっとも飛び入り参加。
2011年7月19日
     〜7月22日

アメリカ人ボランティアを東京から遠野に運ぶ。そして遠野まごころネットの英語スタッフとして正式に参加が決まる。大船渡市を再度、訪問。帰京後、ボランティア参加を促す「東京報告会」にも参加。

2011年8月28日
     〜9月1日

トルコの災害救助隊を率いて岩手、宮城の保育園、幼稚園を訪問。トルコの子供たちと日本の子供たちの心の交流を目的としたブリッジ・オブ・ラブの日本側責任者となり、トルコ政府から表彰される。

2011年9月11日
     〜9月13日

震災発生後半年となった9月11日、まっとを東京に招待し、代々木公園で行われたスリランカフェスティバルで歌ってもらう。その後、遠野まごころの集会にも参加、更に彼を岩手まで送り届ける。

2011年12月24日
     〜12月26日

遠野まごころネット主催「サンタが百人やってくる」プロジェクトに濱守栄子を連れて参加。陸前高田、大船渡における仮設住宅訪問。

2012年1月28日
    〜1月30日

再度、濱守栄子を東京から岩手まで運ぶ。遠野まごころネットを訪問し演奏。濱守栄子、ちゃりんこ等が出演する遠野みやもりホールでのコンサートの手伝い。さらに大船渡でも仮設住宅で演奏を手伝う。

2012年3月2日
    〜3月4日
三度、濱守栄子を東京から岩手まで運ぶ。陸前高田、大船渡の仮設住宅での演奏を手伝う。
2012年7月13日
    〜7月16日

陸前高田で行われたTAKATA FESTA 2012 の手伝い。まっと、濱守栄子らの地元出身アーティストに加え、白井貴子などのメジャーアーティストの出演するイベントの手伝い。

これらのボランティア活動を行う理由・・。自分の書いた曲が津波を予言していたから、というのも一理はあるにせよ、それだけではない。

私は洗濯機を使わず手洗いで服を洗濯している。電気を消費し続ける生活に、このままで良いのかという疑問を持つからだ。しかし、そのきっかけはホームレスになった事である。アメリカから帰国した当時、自分でスタジオを作りレーベルを立ち上げる構想を持っていたが、そこでつまずく。人に騙され、全財産を失った。過去の持ち物、その全てを失くしてしまった。だから自分の過去の写真も持っていない。ホームレスになった時に持っていた物は下着が何枚かと、上下の洋服、それから多少の身の回りの物だから、手洗いの洗濯も楽ではあった。しかしその生活を続けると洗濯機って要らないんじゃない?と思うようになった。

そこから極力、電気を使わない生活を心がけ、音楽もよりアコースティックな方向を目指した。そしてお金もない、住む場所もない、家族もいない、誰ひとり助けてくれない、という最悪の状況から這い上がった。そこからはあっと言う間の大逆転劇だった。資金なし、自分一人で立ち上げたビジネスは面白いように伸び、数年で生活は楽になった。

ホームレスになった時、誓った事がある。もう人の言う事は聞き入れない、と。自分の信じた事をやり通すと何の事はない、全てがうまく行くようになったのである。あのホームレス時代、それも私の原点でもある。

だから全てを失った被災者の立場が分かるか、というと決してそうではない、と思っている。何故なら私は自分の意志で目標に向かっていた時に、信じた人に騙されて全てを失ったのである。自身の過ちなのだ。津波で全てを流された人とは違う。何もしていないのに自然災害によって全てを失う、そこに誰の過失もない。しいて言えばその場所にいた事か。しかし、その場所に生まれ育って、そこで働いて一生、過ごす。ごく当たり前の事だ。そこへ津波が全てを奪った、というのは私が経験した災難とは違う。

ホームレス体験も一つの原点であり、全てを失った被災者と自分を重ね合わせる事はできる。しかし、それだけではここまでの支援活動はできなかっただろう。

あの夏の日から何年、経ったのだろう。あの遠い夏の日・・・。

(パート2へ続く)
PART 2