ロックの産業化がもたらした没落(本編)

   1968年にビートルズが発表した「The Beatles (通称・ホワイト・アルバム)」は1970年の暮れまでに全世界で650万枚を売り上げた。もちろん当時としてはとんでもない数字である。60年代にロック文化が大きく開花、まさに革命をもたらしたのだ。ホワイト・アルバムは2枚組みのアルバムとして世界で最も売れた作品となったのである。しかし10年も経たないうちにその記録は破られる。1977年、ビージーズによる映画のサウンド・トラック「サタデー・ナイト・フィーバー」は全世界で何と6,000万枚という驚異的なセールスを打ち立てたのだ。世界的にディスコ・ブームが巻き起こり、音楽業界に別の意味の革命をもたらす。しかしロックの産業革命がもたらしもの、それは・・・。

    ローリング・ストーンズが「Miss You」というディスコ調の曲を書き、見事に全米チャートの頂点に昇りつめたのはその翌年、1978年だった。そしてロッド・スチュワートの「Do Ya Think I'm Sexy?」あたりはまだ予想しうる範囲だったが、オペラティックでダイナミックな独特のサウンドでブリティッシュ・ロック界の頂点に君臨していたクイーンまでもが1980年、シンプルなベース音が中核となる「Another One Bites The Dust」で全米1位を獲得。同年、アメリカのプログ・ロック・グループ、カンザスまでもが、「People Of The South Wind」という、それまでの路線を方向変換させたダンサブルなシングルを発表、その時はさすがにロック・ファンは嘆いた。それまでロック・ファンのためにあったロックが一般化し、大衆文化と姿を変え、レコード会社がアーティストを操り、大儲けする縮図が描かれてしまったのである。

   1969年、キング・クリムゾンのデビュー・アルバム「The Court Of The Crimson King」はビートルズの「Abbey Road」を抜き、全英のチャート1位に輝いたと言う(しかし実際にヒットチャートを調べてきたら、少なくともナショナルチャートではその事実はないのだが)。ボーカリストのグレッグ・レイクはその後、エマーソン・レイク&パーマーを結成するためにバンドを去るが、その後任としてクリムゾンに参加したのはジョン・ウェットンだった。ウェットンはクリムゾン脱退後、いくつかのバンドに参加するが、その豊かな才能を世界に知らしめたのは1978年UKの結成後だろう。彼はUKのサウンドについてこう発言したと言う。「俺たちのサウンドでパンクなどナイフで切り裂くようにズタズタにしてやる」と。しかし当時流行していたパンクやディスコなどに押され、UKは商業的には成功は収めず解散。そしてEL&Pのカール・パーマー、イエスのスティーヴ・ハウらと共にプログレッシヴ・スーパー・グループ、ASIAを結成するのだ。時は1982年。ASIAもダンサブルな大衆向きシングル「Heat Of The Moment」の大ヒットで全米1位。翌年、2枚目のアルバムを発表し、来日公演が決まる。当時アメリカで開局して一気に人気の広まったMTVが、この「ASIA in ASIA」コンサートをサポート、なんと武道館公演をアメリカに向けて生中継する事になった。

   しかし来日公演のわずか1ヶ月前、異変が起きた。ジョン・ウェットンが脱退し、その代わりにグレッグ・レイクが参加して、来日したのである。いきさつはこうだった。レコード会社がウェットンをバンドから脱退させ、後任としてレイクを連れてきたのである。何故か?アメリカではレイクの方が有名だからだった。わざわざMTVが全米で生中継するために人気VJと共に来日する中、ウェットンでは役不足をいう判断をしたのだ。

   レコード会社がバンドをコントロールする。もちろん利益を追求してこそ、会社という組織が成り立つ。それは当たり前だ。しかし・・・・・。60年代にロックが革命を起こし、熱心な音楽ファンを虜にしていった時点ではまだミュージシャンは幸せだった。アーティストとして生まれてきた人達が自分たちの信じるものを創造してゆく、それがロックだった。しかしレコード会社が、それを一般大衆化すれば、もっと大きな利益が転がり込むことに気づき、ロックを産業化させていった。別に音楽に大きな興味を持っていない一般大衆が、週末にディスティックへ出かける。酒に酔い、孤独を忘れるために。そこにはきらびやかな照明があり、単純なリズムで構成された音楽があり、人々はそのリズムに体を委ねる。レコード会社にしてみれば商品を売り込むのにこれほど楽なことはない。ディスコビートにしてしまえばプロモーションにお金をかける必要もない。放っておいても巨額な利益をもたらしてくれる。

   当時、リッチー・ブラックモアがこのような発言をしている。「最近のレコード会社はバンドが3拍子の曲などを書かないように目を光らせているんだ」と。レインボーは1975年、1枚目のアルバムで「Self Portrait」という3拍子の曲をレコーディングしている。しかしその後、3拍子の曲は書かなかった。ビートルズは3拍子と4拍子を組み合わせた、リズムパターンの変化する曲をいくつか書いた。例えば「I Me Mine」「I Want You (She's So Heavy)」などである。この手の曲は60年代にけっこう多く、ヤードバーズなども得意としていた。70年代にエアロスミスがカヴァーした1964年のシャングリラのヒット曲「Remember (Walking In The Sand)」などもそうだ。しかしディスコがブームとなって、この手の曲は書かれなくなった。リズムパターンが入れ替わる曲だけではなく、実際に3拍子の曲がヒットチャートから消えたのである。何故か?踊れないからである。3拍子と言うのはワルツのリズムだから踊れないわけではないが、ディスコのノリとは全く違う。ましてやリズムパターンが変化する曲ではなおさら踊れない。

   かつてロックは聞く者の五感を震わし、脳に刺激を与えた。聞く者と創造する者の間で超感覚の世界が生まれ、それは時代を揺るがした。しかし1970年代後半、レコード会社が音楽を産業化し、莫大な利益を上げていった時、そのマジックは消え去った。1980年代はロックにとって暗黒の時代である。私は1981年にLAに渡り、レコード業界の中心地であるその地で、ありとあらゆる音楽に耳を傾けた。なぜ私がLAに渡ったのかと言うと、もちろんそこには音楽があふれていると思っていたからだった。中学2年生の時にバンドを始めて以来、私は音楽の全てを知りたいと思った。高校生の時には周りから中毒視されていたが、学校をサボって一日中レコードを聞いて楽器をいじって・・それ以外の事には何一つ目をくれなかった。音楽とは一体何なのか、人間に何をもたらすのか、そして何が世界で一番素晴らしい音楽なのか・・・いつもそれを探求した。LAに渡ってからその探求心は一層深まり、寝ても覚めても常に音楽と共に生きた。

   毎日でも中古のレコード屋に行き、ラジオを聞きながら眠り、数千というロック・バンドを見た。そして80年代の中頃だろうか。ある日、気がついたのである。LAに溢れている音楽、それはほとんどがクズ同然だという事に。全てがコピーであり、同じリズムであり、目新しいものは何もなく、何の才能も持たない平凡な連中が、ただレコード会社に利用されて星屑のようにヒットを作り出している。酷かったのがLAメタルと呼ばれていた連中だった。どれほどのバンドを見たかわからないくらいだが、目新しい音楽にはめったに出会えない(メタリカとメガデスは例外。80年代に何かをやり遂げたバンドは彼らくらいではないか)。それから70年代のカンザスやフォーカス、EL&P、クイーンといったアーティストの音楽を再発見し、その音楽性の高さと、LAに溢れている音楽のレベルの低さに驚愕し、なぜこうなってしまったのか、想いを巡らせた。

   全てがレコード会社の策略で、アーティストが何も創造できなかった時代、それが80年代だ。例えばトリオ・バンド。60年代からヘンドリックスクリーム、ブルーチアー、BB&A、そしてEL&Pなど、音楽が持つ未知の領域を開拓すべく挑戦を続けたトリオ・バンドが多く存在した。さらに70年代のグランド・ファンク、ラッシュ、トライアンフ、ポリースやジャム・・・。トリオ・バンドは常に斬新な音楽を創造していた。しかしディスコ・ブーム後、トリオ・バンドが出てくることはなかった。LAメタルは必ず4人か5人と決まっていた。全てが型にはめられてしまっていたのだ。私はそれに抵抗しようとトリオ・バンドをやっていた。しかしメンバー・チェンジがあり、まだ20歳過ぎのドラマーが参加することになった時、彼はバンドにもう一人加えて4人で活動することを望んだ。彼はアンスラックスなどが好きな若者だった。80年代から音楽にのめり込んだのだろう。トリオ・バンドなんて彼には想像もつかなかったようだ。

   しかし90年代に入ってトリオ・バンドは復活した。実際には1988年前後だがネヴァーナ、キングスX、メルヴィンズらが登場し、そしてLAメタルは消え去った。LAで評判の悪かったメタリカは80年代前半LAを去り、サンフランシスコで活動していた。そして歴史に残る世界的なバンドとなったが、私がLAにいた頃はみんなでメタリカのことを馬鹿にしていたものだった。いかにLAが狂っていたか、そんなエピソードからも伺えるのではないか。悪夢の80年代が終わり、90年代は再びロックがその存在を示してくれた。ナイン・インチ・ネイルやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、スマッシング・パンプキンズら80年代の型にはまらないバンドが再び登場した。彼らも私と同じような感覚でいたのだろう。80年代の産業ロックなどには決して屈しない、という思いでロックの殻を破り捨ててくれたのだ。ネヴァーナは久々に登場したトリオだったが、なぜ彼らがトリオ編成だったか、私にはわかる。私もそうだったように産業ロックに対する挑戦である。LAではトリオで演奏すると奇異な目で見られた。元々日本人が歌っているという点で十分、奇妙だったのだろうが。しかしシーンを活性化するためにも人がやらない事をやるべきなのだ。ネヴァーナはそれを見事にやってのけた。そして最後まで産業ロックに抵抗し、カート・コベインはロック・スターになる事を拒絶し続け、自分の頭をライフルで撃ち抜いた。彼を殺したのは他ならない音楽産業だ。

   ここに一つのデータがある。アメリカで音楽の売り上げが落ちてきている。以下はアメリカ・レコード業界協会がまとめたCD、ビデオなどの総売上である。

年   1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002
売り上げ枚数(単位=百万) 956 1123 1113 1137 1063 1124 1161 1079 969 860

   1996年に11億1300万枚を売った音楽メディアが21世紀に入って10億を切るほど売り上げが低迷している。この業績不振の動きは世界共通だろう。PCの普及で簡単に音楽のコピーCDが作れるようになった。業界は違法だとして、ミュージシャンも含めてこうした動きに抵抗しているが、もう遅い。手段を選ばず利益追求に徹し、肥大化し続けた音楽産業の砦が今、崩れ落ちてきている。しかし音楽にとって、本当に音楽を愛するミュージシャンにとって有難いことなのではないか。もう企業の言いなりにロックが操られる続けることはない。コンピュータやハードディスク録音が普及し、大企業・大手レーベルに頼らなくても音楽を形に残せるようになったのだ。音楽が80年代の不遇の時代を乗り越え、再び蘇る兆候は見えてきている。

   企業が利益を追求するのは当たり前のことだ。しかしその資本主義の企業理念が20世紀の大きな文化遺産をクズに変えつつあった。これからも音楽業界が音楽を利益追求の手段だけに利用されないよう、音楽ファンの一人一人が真剣に耳を澄ますべきだと思う(パート2補足編へと続く)。

(2004年10月 Nikki Matsumoto)

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